2013年6月17日

ハートネットTV シリーズ 多様な"性"と生きている 第4回 マツコ・デラックス "生きる"を語る

 ~マツコ・デラックス 
3本の雑誌連載 8本のテレビ・ラジオ番組レギュラーを持つ
人気コラムニストだ
歯に衣着せぬ言葉と 自らを笑い飛ばす強さ 
しかしその著作には人生に思い悩む姿が 綴られている
「アタシは、絶対的孤独に耐えられるだろうか」
男性として男性を愛するゲイであり 
女性への憧れを女装することで表現してきた マツコ・デラックス
今日は 自らの性と生について 語り尽くす

加賀美 マツコさん、今日はありがとうございます。

こちらこそありがとうございます、本当にもう。

加賀美 あの、本当にあの、お話を伺いたかったんですけどもこんな機会をですね、頂けたましたこと本当に嬉しいです。

いやいや、何もそんな・・・

加賀美 本当に嬉しいです。ありがとうございます。

加賀美さんの方からそういう風に入られちゃうとあたしもう、リアクション取れなくなっちゃうんで、そんな・・・もうこちらの方がご無理を言って、みたいなものですから、本当に・・・

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マツコ・デラックス "生きる"を語る

だって加賀美さんはだって別に、そんなにあたしのこと見てないですよね?

加賀美 いや、見てますよ

加賀美さんの、穏やかな生活の中に、あたしを見る時間ていうのはないはずなんですよ、だって・・・

加賀美 いえいえ、もう。ですから今日だってどういうご衣装かな?と思ってたんですね。っていうのはやっぱり、あの、衣装というのは、マツコさんを表したり、隠したり・・・

「隠した」って表現を敢えて入れてくるあたりが、加賀美幸子節炸裂ですよね、やっぱり。

加賀美 いえいえ、そんなこと(笑)

いやこれ、やっぱりこう、衣装って自分をこう装うだけじゃなくて、ある意味で、ちょっとこう、武装じゃないですけど、鎧みたいなとこがあるじゃないですか。

加賀美 そうですね。

そこはあたしこう、こんなおかしな恰好してますけど、これには何かやっぱり意味があるんだろうなーとは自分でも、薄々感づいておりますので・・・

加賀美 ですからそこをね、今日是非ね、お話を伺いたいと思ってます。

さすがだわー・・・今日日の若いアナウンサー聞いてるか?これ、本当に。NHKも小物になりましたね、アナウンサーが!加賀美さんみたいな人、出てこないもん、もう。

加賀美 それでですね、マツコさんのこう道のりを、遡ってですね・・・

そんな皆さんに、ご説明するほどの立派な道のりないんですよ、もう。

加賀美 いいえ、遡って、まずね、子供時代のことをね、伺いたいんですが。私としましてはですね、小学校時代はね、えー大変こう体格がよくて、元気な男の子、だったかな?と思ってますが。

あのねー何か、嫌な子供だったのは覚えているんですよ。そのー無邪気さだったり、そのー健気さだったり、そういった匂いは一切しない子というか、すごい冷めてる子でしたね、一言で言うと。

~マツコ・デラックスが生まれたのは1972年 「経済大国ニッポン」へと変貌していく日本で幼少期を送った

加賀美 でもその時代、例えば小学校時代なんかはですね、幼い時は、男のや女の子に対しての気持ちっていうのはどうだったんですか?

もう今は完全に男の子が好きって言えるんですけど、当時もボンヤリとした記憶なんですけど、もうだから最初にそういう風に男性を意識したのは、おそらく小学校一年生だった気がするんですよ。あのー彼にそういう風に態度をとってしまったっていうのが、最初だった気がします。その表現方法っていうのが、同級生をこう廊下で、突き飛ばしてしまって、それは今もなんですけど、乱暴なんですよね。

加賀美 突き飛ばしちゃうわけですもんね。

突き飛ばしちゃったんですけど、でも今思うと、だからもう、それぐらいの、だから6歳とか、の時から、やっぱり意識しているのは男性だった気がするんですよね。

加賀美 でもその時代、例えばお化粧したりですね、衣装を女性の物を、そういうことはなかった?

女性になりたいって思ったことは、なりたいとは思ってますよ。でもそれは、生まれ持っての性から女性になりたいんではないんですよね。だからそういう意味で言うんであれば、女性になりたいと思ったことは、一度もないです。

加賀美 ないんですね。なるほど。ですけれども、男性の方が、えーどちらかというと魅力的に感じていたということなんでしょうかね?

もうどちらかというとではなくて、もうそれこそ、中学とかそれぐらいになった時にはもう確実に自分は、「異性愛者」ではないなというのはわかっていましたね。

加賀美 じゃあ女性にはなりたくはないけれども、でも、えー好きになるのは男の子であったという・・・

そうなんですよ。ただ、その憧れる?それこそ加賀美さんも含めて、「アーこういう人になったらカッコイイなー」とか「こういう風に歩みたいな、人生を」って思う対象は、全員女の人でしたね。

加賀美 それがですね、

意味わかんないですよね。

加賀美 不思議なんですけども、そうですね。

マツコが子供の頃憧れていた人物 
ジャニス・ジョプリン 森英恵 土井たか子 伊藤みどり

あの皆さん、まあもちろん素晴らしい方なんで、あのー説明する必要はないんですけど、説明のしようがないにしても、やっぱりこう並べると、とてもインパクトのあるラインナップですよね、これね。

加賀美 いや、とってもよくわかりますよ。

わかります?

加賀美 わかりますよ。

やっぱり!だってあたしそこの真ん中に加賀美さんの写真後から入れて欲しいぐらい。

加賀美 いえいえ、そんなことないですよ。

山田アナ 真ん中にですか!

いや、真ん中よ!当たり前じゃない!何言ってんのよ、あんた本当もう!

加賀美 いや、でも、しかもねえ、あの全部女性でしょ。しかも何故こういう女性にね、憧れていたかという、そのことをやっぱり伺いたいですわね。

本当にあたしの多分セクシャリティをカテゴライズするとなると、とっても厄介なんですけど、どっかであたしはね、フェミニストなんですよ。

加賀美 ああ、ああ、ああ。

今もそれはだから、男のくせに、まあ男・・・男って言いきるのも難しいわね、これ。難しいわね、本当にね。だから何故か知らないけど、感情移入するのは、そのー女性の場合もあったり、男性の場合もあったり、するんですけど、でもかと言ってじゃあ男性で、今だったら歌手の方だったり、政治家の方だったり、デザイナーだってフィギュアスケーターだってスポーツ選手だって男性はいらっしゃいますよね?全く。性の対象でしかないです。

加賀美 なるほど。(笑)そうですか。そうですかー。

何なんでしょうね?本当に。

加賀美 何なんでしょうね?やっぱりねー。

でもねー、

加賀美 はい。

尚更だから彼女たちに憧れてしまうんだろうけども、あたし意外とねー、こう、恥ずかしがりやなんですよ。

スタジオ(笑)

(スタジオ前方を見ながら)何で?何が可笑しいんだかわかんないけど。まあ、可笑しいわよね。あのー何て言うんだろう?あのーはしたないことはできないみたいな、ちょっと古式ゆかしきものが自分の体内に流れていて、やっぱり彼女たちって凄いんだけど、何か大っきな物凄い一番人間の外側にある、一番頑丈な殻を、破らない限り、あの動きはできないじゃないですか。あたしね、そこはきっとね、一生破れない人間で、本当に。

加賀美 でもその、男性的な職業は着きたくないってことはあったんですね?それはあったんですね?

シミュレーションはしてみたんですよ。例えば商社マンになって、ドバイに石油買い付けに行った自分って、どうなんだろう?って思うと、「いやー無理だわー」っていう。

加賀美 ええ。

無理だったんですよね。

加賀美 ええ。ハア・・・

(マツコ、加賀美アナの反応に笑いを堪える)

加賀美 でも、そうするとですね、あのー、マツコさんの場合はですね、うーん、難しいですね、やっぱり。

(二人笑)

いや、だからあたし、こんな、こんな今、こんな形態になったじゃないですか、自分が。まあ、成れの果てとしては、よくできたほうだなって思うんですよね。

加賀美 素晴らしいです。

そんなノープランで、自分というものを自然にこう泳がせて、結果としてこの形になったんだったら、まあ文句は言えないなっていう。有難いですよ、本当に。

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マツコ・デラックス 両親への思い

マツコ・デラックスの両親は昭和一桁の生まれ
戦中 戦後 激動の時代を生きてきた
マツコ・デラックスは 母親が39歳の時に授かった一人息子

加賀美 あの時代の風の中でね、あの昭和一桁ということで、戦前、戦中、戦後、高度成長、バブルとみんな見続けていらっしゃって

エアコンにしても、CDプレーヤーにしても、よそ様よりは5年は遅れてましたね、うちに入るのが。

加賀美 そうですか・・・

あのー、より快適に生きようとか、より便利に生きようとか、より豊かな暮らしをしようみたいな発想が微塵もない人たちだったんで、もう掃除機だって洗濯機だって、新しく買ったほうが安いのに、ずーっと町の電気屋さんに修理頼んで、もうそれこそ、もう何?色が買った時と違う状態になるまで使ってる人たちだったから、それの中で過ごしたわけですよ、幼少期を。だから何かね、あのー、時空がちょっとうちだけ歪んでたっていうか、違ったんですよね。

加賀美 そうですか。でも、そういうお母様だから、そのーマツコさんのね、生き方について、でも何にも仰らなかった。ご自身も仰らなかったの?

あたしもー、これはねだから最近、これでよかったのかなー?って思うんですけど、一回も両親に、自分のそのーセクシャリティに関してもそうだし、職業に関してもそうだし、今どんな暮らししてるかもそうですけど、一切説明したことがないんですよ。

加賀美 一切。

一切です。

加賀美 今に至るまで。

もう。何度かありましたよ、「あんた大丈夫なの?」って。でも、何か避けてきたんですよね、それを。で、まあ両親も、何か執拗にこうそれを迫ってくることがなくて、このままズルズル、ここまで来ちゃったんですよね。

加賀美 でも、その中でですね、ここにですね、あのーマツコさんが書かれた文章あるんですけれども。

すいません、本当に。

今年の正月 腰の手術をして 杖を使わなければ歩けなくなった母から
初めて 明白にアタシのテレビを見ているという内容の手紙をもらったの
そして 最後は「今日も5時の生放送を見ます」で締められていたわ
女装した息子を ずっと母は見ていたのよ
アタシ 思わず大笑いしちゃったわ
そして 孤独ではない自分を再確認し号泣したわ
2011年 「愚の骨頂 続・うさぎとマツコの往復書簡」より

加賀美 と、いうことなんですけども、何にも仰ってないんですよね?でも、お母様は、ちゃんと、わかってらっしゃったという。

おそらくねー、だから、手紙でもそういうことを書く人ではないんで、「このタイミングで言ってあげたほうがいいんじゃないかな?」って、きっと母がね、機転を利かした気がするんですよね。
その、自分が腰の手術をするっていうこともあるでしょうし、そこで要らぬ心配を、かけまいと、サービスで書いたんだと思います、うちの母は。

何にも言わない人なんですよ。そのー、ちゃんとしろ的なことを。まあ「勉強しろ」もそうだし、まあ唯一言ったのが「太り過ぎだ」だけなんですけど、もうそれ以外は何にも文句を付けてこない人なんですけど、じゃ、かと言って、何にもあたしのことを見ていないか、何にもあたしのことを愛し、微塵も愛していないかって言ったらそうじゃなくて、物凄い、深い所で、ちゃんと見てるんだよっていうのは、伝わった上で、何も言わない人、なんですよ。

加賀美 でもですね、それまで、マツコさんは、お母様には仰らなかったという。そういうお母さんだったら、仰ったらね、「うん、いいんじゃない」とかね、もしかしたら仰ったかなーって思うんですけど。

それこそ戦前に生まれて、戦争を過ごしてね、父なんか満州に行ったりとかしていて、で、戦後の苦しい時代も過ごして、高度経済成長を見て、バブルで浮かれた日本も見てっていう人が、もうそろそろ、人生というものをね、穏やかに、こう、幕を閉じていく年齢になってきた人に向かって、「ゲイってね」、ってところから始めて、「こういう生き物なんですよ」って。「だからお父さんとお母さんとはこんな風に違うけど、こんな風な人生もあってね」、っていうところからまず始めて、で、「こんな特殊なやっぱり仕事をしているから、10年後こうなってるかもしれないよ」っていうのを、10年後、もうこの世にいないかもしれない両親に、説明して理解してもらうのって、身勝手な気がしたんですよね。これはもう、何か結果を出して、それで納得してもらうしか、もうないなっていう。それまでは、「何やってんだ、うちのバカ息子は」と思いながらも、余計なこと考えずに、穏やかに暮らしてほしいなっていうほうが、強かったんです、あたし。もう、甘えっきりです、両親には。